歴史

はじめに

東海支部は、愛知、静岡、岐阜、三重の4件を管轄としており、俚謡名古屋音頭に"オラガ名古屋は日本のオヘソだよ"と謡われているとおり日本の中心地区である。戦国時代の3英傑織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はいずれも当地方の出身である。徳川時代となり居城は江戸に移っても幕府は名古屋に御三家の筆頭徳川家を置き親藩として重きをなした。また尾張徳川家は、水戸や紀伊をしのいで御三家の筆頭であったにもかかわらず尾張だけが将軍を出していない。

このように平穏な時代が永く続けば商業の栄えることは当然のことで、しかもそれらは御用商人が中心となり、三家、四家、御勝手御用達、同次座、同格、町奉行所御用達等々に分けられて、それぞれの家格を重んじ栄達をとげ、その後の社会、経済機構が大幅に変わってもその余韻は残り、歴史のそれぞれの時代層が累積されて東海の特色を形取っているのである。

わが業界においても、このように培われた歴史的背景が無影響とは考えられない。東海の経済力はわが国全体の10%を標準とされているが、わが業界は残念ながら10%に達せず、東海支部所属の会員数は全体の8%弱に止まっている。しかしながら、監査業務を主体として設立された監査法人は全体の16%が名古屋市に主たる事務所を有しており、このことは監査業務に関して他からの進出を許さない土地柄のせいであるが、この土地柄は前述した歴史的背景に培われたものであり、排他的とも言われてきたゆえんであろう。しかし、戦後の激動が、社会、経済、文化に与えた影響はいちじるしく、このような状況は漸次消滅しつつある。

東海部会の誕生

いよいよ公認会計士の誕生である。特別公認会計士試験合格者の発表があり孤々の声をあげたのが、昭和24年9月16日であった。全国で60名東海支部で5名であった。その比率は前述のとおり当初から8%であった。出身地別にみると名古屋市1名、名古屋市を除く愛知県1名と静岡県、岐阜県、三重県各1名あての計5名と、まことにうまく県に分散されていた。その後転住があり、人数に変更はあったが、発表当時では上記のとおりであった。

そこで名古屋在住の中村文雄、林錥三が中心となって当地方における団体結成の準備をするとともに東京との連絡に当たった。

昭和24年11月8日観光ホテル丸栄において、会員5名全員出席うえ部会の発表会を開催した。来賓は財務部長、国税局長、証券取引所理事長、証券業協会会長、商工会議所会頭、計理士会長、弁護士会長、名古屋大学教授等9名でほとんどが御本人の出席であり、当時としては珍しいことであった。これも新しく誕生した公認会計士に対する期待感によるものだろう。

東海部会発会式

発足早々の部会はなかなか忙しかった。主な動きを日を追って掲げてみる。

昭和24年

  • 11月17日名古屋財務部長、大蔵省理財局総務課長と懇談。職域開拓、会計士業務と事務所経営の問題などについて要望、協議を行う

昭和25年

  • 1月9日特別試験合格者の歓迎祝賀会を名古屋ABC会館において開催した。
  • 8月11日GHQ経済科学局名古屋支局R.W.カールソン支局長と懇談、公認会計士制度の確立に関し懇請するとともに要望書を提出した。
  • 9月2日公認会計士管理委員会委員等と懇談、試験制度などについて意見を交換した。
  • 9月13日及び14日監査基準発表講演会(講師 岩田巌、黒沢清の両教授)を開催した。
  • 9月15日特別試験受験準備講習会を開講した。

公認会計士の最初の共同業務は、わが国税制改革の基本となったシャウプ勧告の基礎資料調査であった。

昭和25年GHQ経済科学局名古屋支局の委嘱を受けて管内の税務の実態調査に従事し、また名古屋国税局からの依頼を受けて、資産再評価参考資料として法人の所有資産取得の時期及び取得価額不明資産の調査、減価償却資産及び土地取得価額実測等の調査、減価償却資産の能力低下と時価との関係図表制作に従事した。これらは、減価償却資産耐用年数改訂の参考資料でもあった。

証券取引法による監査の実施以前に当地方の公認会計士はどのような業務に従事していたか。
昭和25年7月東海財務局からの依頼による過去6ヶ月間の公認会計士業務の実態報告によれば、次のようになっている。(会員11名)
監査又は証明22件 調査175件 財務書類の調製189件 その他69件
以上の業務の内容がどのようなものであったか明らかでないが、その大半は税務に関連した事項であったと思われる。

いずれにしても公認会計士という肩書が重荷となって、また希少価値とも相乗して仕事はやりにくかったようである。当地方で公認会計士の責務の重さに自ら命を賭した貴い犠牲者もあったが詳細はつつしみたい。

~ 公認会計士制度二十五年史 より抜粋 ~

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